東京地方裁判所 昭和52年(ワ)5167号 判決
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【判旨】
三被告の責任
そこで、以上の診療経過に照らし、被告に本件診療契約上の債務不履行があるか否かについて検討するに、<証拠>によれば、虫垂炎の一般的症状としては通常以下のようなものが挙げられ、その診断の基準とされていることを認めることができる。
1 自然痛
初発時には多く広汎性(全腹部)もしくは胃部(上腹部)、臍部、下腹部等に軽い痛みを感じ、時間が経つにつれ右下腹部に限局された持続性の痛みとなる。
2 圧痛
マツクバーネー氏点(臍と右上前腸骨棘とを結ぶ直線を三等分し棘から三分の一の長さの点)、ランツ氏点(両腸骨前上棘を結ぶ直線の右三分の一と中央三分の一との境界点)等に圧痛を訴える。
3 筋性防衛
右下腹部を圧迫すると腹壁筋が緊張の度を加える。虫垂の位置が腹壁に近いほど、また病変が強いほど早く旦つ著明に現れる。病初不明瞭であつても病変が進行すれば数時間後必ず現れる。
但し、虫垂が盲腸の後方や骨盤腔内に深く入つている際には、筋性防衛の発現も遅れるか、又は、不完全なままである。
4 悪心・嘔吐
自然痛と前後して発病初期から悪心あるいは嘔吐が現れる。永続しないのを常とし、合併症なくして二日以上にわたることは極めて稀である。
5 発熱
発病数時間に漸次悪感を伴つて現れることが多い。三七ないし三八度のものが最も多く、三九度に達することは少い。
一度下降した体温が再び上昇するときは膿瘍形成を考えるべきである。穿孔して急性腹膜炎を併発すると一時体温は分利性に下降し虚脱に陥ることがある。もし同時に激痛、発汗があり、腹部の膨満をみるときは疑いなく穿孔をきたしている。
6 呼吸と脈拍の増加
体温の上昇とともに呼吸や脈拍も増加する。
7 便通
下痢をしめすものは少なく発病後は便秘にかたむく。
8 白血球の増加
好中性白血球の増加および核の左方移動は殆ど毎常認められ診断上および予後判定上重要な所見となる。多くは血液一立方ミリ中に一万以上を示し、二万以上となれば穿孔性腹膜炎の疑いがある。
9 その他
ブルンベルグ徴候(腹膜炎の場合に、疼痛を起こさぬ程度に腹壁を徐々に圧迫し急に離すときに疼痛が感じられる。)、ローゼンシユタイン症候(左側臥位で虫垂部に圧迫を加えると疼痛が感じられる。)等が認められる。
ところで<証拠>によれば、被告は、腹痛を訴えて来院した患者の診察にあたつては特にその患者が激しい痛みを訴える場合所謂「急性腹症」を念頭において診察にあたり、急性虫垂炎の診断については、問診及び触診により前記の如き虫垂炎の一般的症状として挙げられている自然痛、圧痛、筋性防衛等を証明することによつていたことが認められ、前記診療の経過に関する認定事実によれば本件原告に関しても同様の診察方針で臨んだことが認められ、被告の右の如き診療方針は急性虫垂炎の診療に関し一般に採られているところであるということができる。
しかして、前記開腹手術の結果によれば、原告の虫垂突起は腹腔後壁近くに位置し、その疾病は炎症を起こした右虫垂突起が後腹膜の裏側に埋没して穿孔し膿瘍を形成するという極めて稀な例であつたことが判明しており、<証拠>によれば、このような虫垂突起の位置異常の場合には、腹筋の筋性防衛が認め難く、圧痛の証明されないこともあり、正しい診断は甚だ困難となることが認められるところ(前記新宿診療所においても開腹手術前の診察においては虫垂突起の穿孔による盲腸周囲膿瘍か腎周囲膿瘍か必ずしも明確な診断はできなかつた。)、現に本件においては、初診時からマツクバーネやボツペルトランツ部位の圧痛、腹壁筋の筋性防衛及びプルンベルグ徴候ローゼンシユタイン症候等虫垂炎特有の症状が殆ど認められなかつたことは前判示のとおりであり、加えて、原告にはかなりの咳を伴う感冒及び気管支炎症状が認められたほか、右側腹部ならびに腎臓部の圧痛や尿沈渣の結果白血球が()を示す等腎盂炎を思わせる症状も存したことからすれば、被告が八月一四日の初診時及びその後においても同月二一日その旨の徴候が発現するまで原告の疾病が虫垂炎である旨の診断をなさず、それに応じた処置を採らなかつたこと、そして、その後右症状が明瞭になつた時点で、これを外科医へ紹介するという前記認定の如き一連の診療行為をなしたことについて、被告の行為に本件診療契約上の債務の不履行に当るものがあるとみることは困難である。
なお、被告が原告の疾病に際し末梢血液の白血球数の検査を行なわなかつたことは被告も自認するところであり、右検査が虫垂炎の診断方法の一つとして一般に採用されていることも既に見たとおりであるが、<証拠>によれば末梢血液中の白血球の増加は身体内に炎症があることを示すに止まり、それだけで虫垂炎の診断に決定的な意味を持つものではなく、他の症状と相俟つて診断を基礎づけるにすぎないものであることが認められるから、先に見た如く殆ど虫垂炎特有の症状を示さないのみならず、かえって、気管支炎、腎盂炎等の炎症性の疾患を疑わせる症状を呈していた原告につき、被告が右検査をしなかつたことを捉えて、本件診療上の過誤であるとまでいうことはできない。
また、被告が腹部のレントゲン撮影を行なわなかつたことも前記認定の診療経過に徴し明らかであるが、<証拠>によれば、虫垂炎の診断に際し、レントゲン撮影が一般的に行なわれている訳ではなく。通常なすべき検査とはされていないことが認められるから、右検査の不施行は格別問題とすべきものではない。
以上の判示からすると、被告が当初「食中り」との診断を下すにつき、原告に対し発病前の食物摂取状況につき十分問診を尽しているか否か証拠上明瞭でない点に多少の疑問が存しないではないが、被告の診療行為を全体として通観すれば、本件診療契約上の債務の履行として欠けるところがあると断ずることはできないものというほかはない。
(落合威 塚原朋一 原田晃治)